首都大学東京 大学院社会科学研究科 経営学専攻 Research Paper Series

研究ノートを公開しました。

麻里久(2016)「消費者市場におけるリレーションシップ・マーケティング再考」、『首都大学東京 大学院社会科学研究科 経営学専攻 Research Paper Series』、No.171、pp.1-17。

https://www.biz.tmu.ac.jp/research/research_paper/?step=2

※オンラインでは公開していません。首都大学東京図書館経営学系図書室で閲覧いただくか、著者までご連絡ください。

2015 International Conference of Asian Marketing Associations (ICAMA)

ICAMA2015でご報告させていただきました。

“Could Social Media Work as Markers of a Brand Community?”

http://jsmd.jp/icama/ICAMAProceedings.pdf

企業と市場と観察者、その続き。

そう、この感じが嫌いで僕はいつも殻に閉じ籠る。
既得権益、過去の威光、保身。糞食らえ、うんざりだ。
口を開けば文句と愚痴ばかり。
でも、私もその中のひとりだった。
仲間を失ってはじめて、そんな自分に嫌気がさした。
志ある人たちとともに前に進みたい。
そのためにはチカラが欲しい。
3年前の私はそんなことを思いながら、新しい門を叩いたような気がする。

我ながらポジティブなようでいて極めてネガティヴな動機w

2年間でモノの見方が大きく変わった。
たくさんの素晴らしい出会いに救われ、よき師にも巡り会えた。
学ぶことがこんなに楽しいものなのか、と、
おそらく人生ではじめて感じたように思う。

学部時代の亡き恩師には申し訳ないが、
先生はすべてを分かっておられたと思うし、
すべては自分の未熟さ故で、先生に帰するものでもない。
先生との対話は学問以外のことが多かったように思うが、
その中で全人格的な教育をいただいたと思っている。

学びが楽しくなった。
まだまだ、まだまだ、未熟な私がいる。
もっともっと、もっともっと、真理を探究したい。

一方で私は実務家でもある。
むしろ、そちらが本業だ(笑)
実務においていかに成果をあげるかは
極めて重大なテーゼである。

師は、自身の著書の中で、実務とアカデミアの乖離についての
数多くの先行研究を提示しながら、
ビジネススクールの可能性について論じている。

Mintzberg(2004)ら多くの研究者が指摘するように、
アカデミアの厳密性と実務の実用性は対立するものなのか。

師のように、まだ明解な答えはないのだけれど、
自らの身をもってそれを探求してみようとも思う。
すなわちアカデミアの厳密性は実務の実用性に還元するのか、
アカデミアと実務の接点ではどのような現象が生じうるのか、
実務家がアカデミアに身を置くとはどのようなことか。
明らかにしたいことは山とある。

まだまだまだまだ未熟な私の力では何年かかるか想像もつかない。
とりあえず6年くらいは、と思ってはいるが(笑)

まずは目の前の一歩から始めようと思う。

諸先生方、先輩諸氏、ご指導の程、何卒、よろしくお願いします。

日本マーケティング学会マーケティングカンファレンス2014オーラルセッション

日本マーケティング学会のマーケティングカンファレンス2014でご報告させていただきました。

「長期的なマーケティングの視点から見るソーシャルメディア ―従来のブランドコミュニティ概念との類似点と差異―」

https://www.j-mac.or.jp/any_file/af_download.php?af_id=21 (学会員のみDL可)

「問い続けること」「問い直すこと」(ビジネススクールを修了して)

ビジネススクールに入学して最初の頃の授業での話である。

ある教授がおもむろにホワイトボードのマーカーを手に取り、

「これは何だろうか?」

と、学生たちに問うた。

どこからどう見てもホワイトボード用のマーカーにしか見えない。
当然、私たち学生は「ホワイトボード用のマーカーです。色は黒色。」と答える。

すると教授は、

「本当にこれはマーカーか? マーカーとは何か?」

と、続ける。

まるで、禅問答だ。
正直、これはとんでもないところに来てしまった、と思ったものである。

同じような構造の議論を、ゼミに所属してからも、
師やゼミ仲間と延々繰り広げることとなった。

「ペンはペンか?」
「テレビは冷蔵庫か?」

このような問いについて30〜40歳前後のいい大人たちが、

「ペンはペンでしかないでしょうが!」
「いや、ペンはペンではないかもしれない!!」

と、90分、口角泡を飛ばしてディスカッションする。
傍から見たら気でも触れたのだろうかと思うかもしれない。
挙句「テレビは冷蔵庫か?」ときたものだ。
もう、気が触れているに違いない(笑)

「テレビは冷蔵庫か?」と問うたのは、師の師である、石井淳蔵教授である。
「マーケティング思考の可能性」(石井 2012)の第2章にその議論がある。

この難解な1冊をテキストにゼミ生全員で輪読を行ったわけであるが、
(今だから言えるが、当時はさっぱりわからなくて、
議論に貢献することはほとんどできなかったように思う)
さて、この種の議論から何が生まれるのだろうか。

これが本稿の主題である。

この答えとして、少し本意とは異なるかもしれないが、
私の師の言葉を引用したい。

同じ「問い」が与えられるといっても、「問い」には、何かを問い続けるという姿勢と、何を問い直すという二つの姿勢がある気がする。たぶん、より価値があるのは問い直すという姿勢ではないか(水越 2012)

前述の議論は「ものに価値は内在するのだろうか?」という問いを発端とする。
同様の問いに「顧客ニーズは実在するのだろうか?」というものもある(水越ら 2013など)

マーケティングの議論において、私の知る限り、
いずれもそれらは当たり前の前提として議論されてきたように思う。

マーケティングの大家とされるコトラーがまとめた
マーケティング・マネジメントは、多くの大学院生のテキストとなり、
多くの実務家にも支持されるところであるが、

その中でも、

マーケターは標的市場のニーズ、欲求、受容を理解しようと努めなければならない。『ニーズ』とは、人間の基本的要件である。(中略)マーケターがニーズを作り出すのではない。ニーズはマーケターより先に存在するのである。(Kotler 2008, 邦訳p.31)

と記述されている。

私たち実務家はおそらくほとんど何の疑いもなく理論を受け止め、
実践しようとするだろう。少なくとも私はそうしてきたように思う。
そのように規定されてきたし、一見すると納得もいく。
異を唱える者も少なく、なにより安定感がある。
そして、実務上当てはまらないということ以上に異を唱えるのは
私たち実務家の仕事ではない。(そのような時間はない、と思うだろう)

しかし、先のような議論を突き詰めていくと、
プロセスの中で別の価値が出現したり、
関係性の中で顧客ニーズが形成されたりすることもまた明らかになっていく。

再び、師の言葉を引用しよう。

何かを問い続けるという姿勢は、もちろんすばらしいが、要するにそれは納得する答えが未だ一度も見つかったことがないという状態のように感じる。だから、はじめての答えを求めて問い続けるのであり、それは可能性でもあるが、同時に砂漠に一滴の水を探すがごとき苦難の道である。あるいは、「問い続けねばならない」というとき、万が一答えが得られてしまうと、もう問い続けることができなくなってしまうのだから、問い続ける目的としての発見は、常に実現できないという矛盾を抱えている。

(中略)

さて、むしろここで確認すべきなのは、問い続けることというよりは、問い直すという表現の価値であった。問い続けるという姿勢に比べると、問い直すという姿勢が意味しているのは、答えが与えられてしまった後の作業であるように思う。かりそめでもなんでも、答えが一度与えられ、一定の安定が得られている状況において、今一度その答えをめぐって問いを再開するというわけだ。こちらには問い続ける姿勢のような矛盾めいた悲壮感はない。ジャンプし、なんならまた同じ場所に戻ってきてもいい。(水越 2012)

経営学は、社会のように変数が複雑で、
ましてや人間のように完全な合理性を持ち得ない対象を科学、
観察する学問である。

帰納的に見て真と思えることでも、
別の時代、別の環境、別の条件下では偽となろう。

従って、この「問い直す」ということは
我々、実務家にとっても、極めて重要なことのように思う。

そこでは、解を得ることが格別重要なわけではない。
解を得ようとする過程において、
別の新たな発見が得られるかもしれないという可能性が重要だ。

最後に、ミクロ組織論の講座で
素晴らしい授業を繰り広げられた高尾義明教授から
修了式に贈られた祝辞が印象的であったので引用させていただき
本稿を締めくらせていただきたいと思う。

論文とはなにか。
論文とは、問いがあり答えがあるものである。
優れた論文を書く秘訣は「優れた問い」を見つけることである。
優れた問いを見つけることができたならば、
解の半分以上は得られたに等しい。

私はここに、得られた答えを「問い直す」ということの意義についての
一論考を付け加えさせていただく。
そして再びビジネススクールでの学ぶことの意味を自らに問い直したいと思う。

最後に余談となるが「テレビは冷蔵庫か?」という議論は、
佐藤B作氏が主宰する東京ボードヴィルショーの名作舞台で
三谷幸喜氏が脚本を手がけた「アパッチ砦の攻防より 戸惑いの日曜日」の
名シーンを思い出させる。

この作品は佐藤B作氏が扮する悩める父親のドタバタ人情コメディーである。
自宅のテレビを修理にきた電気屋にテレビを映るように修理してくれと言うのだが
訳あって、ランドリールームに閉じ込めざるを得なくなってしまう。
ドタバタが終わって、一件落着、すべてが丸く収まったと
客席がほっと一息ついた瞬間に、閉じ込められていた電気屋が出てきて一言。

「お客さん、あれはどっからどう見ても洗濯機にしか見えないけれど、
お客さんがどうにかあれを映るようにしてくれって言うから、
なんとか映るようにしといたよ」

なるほど、テレビは冷蔵庫ではないかもしれないが、
洗濯機はテレビになり得るかもしれないのだ。

 

参考文献:
Kotler, Philip(2008)『コトラー&ケラーのマーケティング・マネジメント 第12版』, ピアソン桐原.
石井淳蔵(2012)『マーケティング思考の可能性』, 岩波書店.
水越康介(2012)「『マーケティングの神話』再考」(http://mizkos.jp/data/2013/01/post-10.html)
水越康介ら編(2013)『新しい公共・非営利のマーケティング 関係性にもとづくマネジメント』, 碩学舎.