企業と市場と観察者

最近とあるきっかけをいただいてぐるぐると考え続けていること。まだまだまとまっていないが自身の整理のために吐き出してみる。

師匠の書いた『企業と市場と観察者―マーケティング方法論研究の新地平』が好きだ。博士論文に基づき公刊された本。私が修士の時に上梓され、初めて読んだが難解すぎて何のことかはさっぱりわからなかった。それから幾度となく読み返しては悶絶し、相変わらずさっぱりわからないのだが、それでも好きな章はできた。それが12章である。私の問題意識と一致するからだ。いや、むしろ12章に出会ったから今私は博士課程に足を踏み入れたのかもしれない。

さて、12章をお伝えするためにも、以下に頑張ってそこまでの議論の道のりの要約を試みる。本書のすべての章に共通する主張は恐らく以下の1点であると思われる(違ったらすいません、弟子の不出来ということで、何卒ご容赦ください)。

“A”と”1″という2つのパラダイム(概念的枠組み、考え方を定めるための枠組みのようなもの)があったとする。そのふたつは異なるパラダイムであるから共通の基準は存在しない。これを学術用語で「共約不可能性」と言う。この考え方によると異なるパラダイムに共通の基準は存在しないから、”A”と”1″という2つのパラダイムの優劣は判定できない、という。

しかし、共通の基準が存在しないことが、ただちに優劣判定できないということにはならない、と筆者は主張し「共通の基準を参照することのない優劣判定の可能性」を論ずる。この主張を基に(この主張自体は先行研究でもたびたび言及されてきた)マーケティング論における様々な論点が議論されていくわけである。

共通の基準がないのにどうやって優劣を判定できるのだろうと頭の中に「?」が点滅した読者も少なくないだろう。私もその一人である。いまだに「?」が点滅している(笑)私の付き合い方としては、その議論を理解するのではなく、まるっと飲み込んだことにして、各章を読んでいくことであった。従って、実務家の方々はぜひ言いたいことをぐっとこらえて、まるっと飲み込んだ上で12章を読んでいただきたい。

「ビジネススクールの可能性」という題で構成されるこの章は、古くからよく言われてきた古典的な対立である「理論と実務の溝」、すなわち実務家の「理論は実務の役には立たない」というボヤキに挑むものである。

この問題はアカデミアにおいては「厳密性」と「実用性」という対立であると読み替えることができる。研究に取り組んだことのある人ならわかると思うが、学術の世界の正当なアウトプットであるとされる論文は、厳密な様式(体裁が何より重要視される)、厳密な手続き(結果以上にプロセスが重要視される)と言った「厳密性」が何より問われる。このことが現実との乖離を生むとしばしば批判されてきた(その辺はp.207にBenbasat & Zmud(1999)やDavenport&Markus(1999)の議論を引用しながら詳細に示されているので参照されたい)。

冒頭の議論に戻ると「厳密性」と「実用性」は共約不可能であり、従って「研究者」と「実務家」もまた共約不可能であるということになる。しかし、その共約不可能な2つが対立しつつ、バランスを求め合う場所がBS(ビジネススクール)ではないかと本書では論じている(p.206)。

最近いただいたとあるきっかけにとなる問い並びに主張(まどろっこしいw、そしてここからはまだあまりまとまっていない)は、

第一に、アカデミアにおける「厳密性」は不要ではないか(実務家にとって何の意味があるのか?)
第二に、研究者の観察による理論構築は不要ではないか(であれば、実務家が観察をして対処したほうが早いのではないか)
第三に、前ふたつに対する「蓄積がなくなる、意味をなさなくなる」という批判に対しては、実務の世界にも蓄積はあり(例えば、メソッド)、実務の方が(厳密性がない分)サイクルが早いので実務においては有益である

というものである(実際にはもう少しありそうな気もするが、ここでは議論をシンプルにするために3つくらいに留めておく)。

これらの主張はむしろDavenport&Markus(1999)の議論、すなわち経営学はさらに実用性を充実させる必要があり、コンサルタントの分析の早さを学ぶべきであり、医学や法学に近い研究体系の構築を志向すべきである(水越, 2011, p.207)という主張に近しいのではないかと考えられる。もっともそれに対してBenbasatらはゆえに差別化を図るためにもより厳密性が必要であると反論するわけであるが。

さて、これらの問い(主張)に対して、私は「厳密性」の意義と研究者の観察による理論構築の意義について擁護しなくてはならない立場であるということがひとつ(アカデミアに片足を置く者、あるいは研究者と実務家の橋渡しを志向する者として)、一方で、引き合いに出した本書に可能性を見るならば、そもそもそのような議論自体が不要なもので(なぜなら、それらは共約不可能だから)、その上にバランスを求め合う可能性を論じたほうがよいのではないかとする立場もあるのではないか、と、、、まあ、最後の方はまだ思考がぐちゃぐちゃなので、うまくアウトプットできないですが、最近は後者の立場が優勢で論考を進めています。

ということで、なんとなくまとまらない感じで今回の投稿を終えます。答えを期待していた方、ごめんなさい。

件の問いをくれた友人と師匠はどうやら知り合いらしいので(世界は狭いw)、1回、飲み会という名のパネルディスカッションでも開催させていただいて、再びこの場で発表させていただければなと思います。